かるーく巡る戦国時代と武将の歴史考察&紹介( ・`ー・´)

タイトル通り戦国時代と武将のにわか考察と紹介をしてるブログです

三英傑にも物怖じしなかった家臣達の諫言

およそ主君を諌める者の志、戦いで先駆けするよりも大いに勝る

これは徳川家康の言葉として伝えられています。

戦で一番に敵を討ち取った者は、手柄を挙げられるし討たれても名誉になる。

しかし主君を諌める者は、手柄にもならず疎まれ最悪死罪になってしまう。

だからこそ本来賞賛されるべきは自身を諌めてくれる者だという意味です。

 

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現代でも立場が上の人間に対して、注意や助言をするのは本当に難しいし勇気が必要です。それが最悪死に直結した戦国時代なら尚更でしょうね…。

今回はそんな戦国時代に圧倒的権力を持っていた三英傑(織田信長豊臣秀吉徳川家康)相手に物申した家臣たちの逸話をいくつか、ご紹介させて頂きたいと思います。

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斎藤道三「あのうつけ(織田信長)の門前に馬を繋ぐことになる」そうはならなかった義龍・龍興

「息子たちはあのうつけの門前に馬を繋ぐことになる」

「山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候」

 

馬を繋ぐの用語解説 - (権力者の御機嫌をうかがいに来て、その門前に乗馬をつなぐところから) 

馬を繋ぐ(うまをつなぐ)とは - コトバンク

 

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名もない僧侶、油商人から土岐氏の家臣となり権謀術数を用いて戦国大名にまで成り上がった『美濃の蝮』斎藤道三

美濃一国を奪い取ったドラマティックな彼の生涯は著名な歴史作家、司馬遼󠄁太郎さんの小説『国盗り物語』の主人公として描かれた事で有名で、この小説は1973年に大河ドラマ化も果たしています。

(「六角承禎書写」の発見以降、僧侶から土岐氏の家臣になったのは道三の父で、美濃の国獲りは二代で達成したという説が濃厚)

国盗り物語(一?四) 合本版

国盗り物語(一?四) 合本版

 

上記の発言は娘婿であり当時うつけと評判の織田信長と会談した後、道三が残した言葉。

美濃(岐阜)という豊かな国を支配しかけていた斎藤家が、尾張一国(愛知)もまとめてきれていない織田家の軍門にいずれ下るであろうという予言でした。

 

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後に信長が天下に号令をかける大大名に成長した事で、道三の人を見る目が凄かったという話に繋がる逸話ですね。

しかし戦国大名の美濃斎藤家は織田家によって滅ぼされはしましたが、実際に道三の後継は信長の軍門に下ったのでしょうか?

今回は道三の後継者であった大名美濃斎藤氏当主達の生涯と織田信長との関わりについて語っていきたいと思います。

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武士の嘘は武略 『嘘』に関する戦国武将の名言集

嘘とは‐ 事実でないこと。また、人をだますために言う、事実とは違う言葉。偽(いつわ)り。

嘘(ウソ)とは - コトバンク

 

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戦国時代において『嘘』は調略の一部として用いられることが多々ありました。

嘘の情報で攪乱し、時に人の気持ちを裏切ってでも相手を出し抜き、家・家臣・自分の命を守らなければ時代だったからです。

しかし調略に頼りすぎて多くの信用を裏切った武将は『梟雄』『卑怯者』等と呼ばれ、『義』に反した信用できない相手として扱われ、決して嘘が美徳とされていたわけでもありませんでした。

そんな時代だからこそ特に『確かな約定・約束』『信用できる人』が重要視されていたんでしょうね。

今回はそんな『嘘』を戦国武将達がをどんな目で見ていたのか。名言を交えつつご紹介していきたいと思います。

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戦国時代も中間管理職は辛いよ

上には逆らえず。しかし成果を挙げなければドヤされる。

下には押し付けられず。しかし言い方一つで恨まれる。

中間管理職の辛い所ですね。

 

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戦国の有名な中間管理職(といっても大分上の役職ですが)といえば豊臣家の奉行衆。

主君秀吉と自他大名間での取り次ぎ・統治の指導・インフラ整備・朝廷との折衝・代官職・兵糧運搬等様々な仕事に奔走。豊臣家の天下統一とその安定に大きく寄与していました。

懸命に働いていた奉行衆ですが、そんな彼らは後年怒りをぶつけられる対象になってしまいました。主君秀吉の時より出る無理難題や理不尽な仕置きに直接文句を言えなかった各大名や武将の怒りが間に入っていた奉行衆へ向けられてしまったためです。

これが後に関ケ原の戦いへと繋がり、豊臣政権崩壊の原因となっていくのですが…

今回は奉行達がどんな恨みを持たれていたのかを逸話を交えて語っていきたいと思います。

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戦国最強軍団を受け継いだ武田勝頼は勝ち続けなければいけなかった

源義光を始祖とし平安から続く名門甲斐武田家。

名家でありながら戦国時代には最強と呼ばれた屈強な軍団を率い、本国甲斐(山梨)、信濃(長野)、駿河(静岡)や他5ヵ国の一部まで領地を拡大に成功。戦国有数の大名家に伸し上がった武田家。

 

その躍進の中心には水害の多かった甲斐の開発に成功、独立志向の高い国人衆を統率するカリスマ性、戦においては殆ど負けなしの軍略、全てを兼ね備えた現代でも有名な戦国大名武田信玄の存在がありました。

 

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その後を継いだのが『強すぎる大将』と呼ばれた彼の三男勝頼。

 

偉大すぎた親の影響力。

旧態依然の体制のままだった家。

三男ながらも家を継ぐ必要があった自身の状況。

織田徳川だけでなく多くの困難との戦い続ける必要があった信玄亡きあとの武田家当主の座。勝頼はそれを懸命に務め、武田家の最大版図を築きあげました。

 

そして家督継承から9年後。

武田家はその長い歴史に幕を下ろします。

最大版図を築いたはずの勝頼の元で。

 

今回は武田勝頼が、一体どんな厳しい状況にあったのかについて考察していきたいと思います。

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