かるーく巡る戦国時代と武将の歴史考察&紹介( ・`ー・´)

タイトル通り戦国時代と武将のにわか考察と紹介をしてるブログです

「あともう一声…」領地を要求した戦国の逸話

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自身のため、家のため、家臣のため。戦国武将は領地を増やさなければなりません。

そのために懸命に働き、それに報いるため大名は領地や金銀等を与える必要がある。いわゆる『御恩と奉公』というやつですね。

しかし時には、自身の都合から与えられるのを待つだけではなく必要としているモノを伝える必要がありました。

今回はその際に結構無茶な領地要求をしたなーというエピソードをお届けしたいと思います。

 

黒田官兵衛 九州七か国(推定150万石以上)

 関ヶ原の戦いの際、当時隠居の身でありながら天下に名だたる将としられていた官兵衛は徳川家康石田三成の両陣営から重要人物として注目されていました。

そんな官兵衛の元に三成から参加した際に豊臣秀頼の天下が盤石となった折には褒賞として好きな場所に領地を与えるという書状が届きます。官兵衛はその書状に対し「九州7か国(九州は全部で9か国)をもらいたい。それを確約するサインも頂きたいので家臣を送らせます」というとんでもない条件を提示。(黒田家の石高は当時18万石程度)

島津・小西・鍋島・立花等の九州の有力大名を抱えている西軍が呑めるはずがありません。

しかし、これは断られるとは分かっていたものの当時の西軍の状況を家臣に確かめさせるための官兵衛の策だったそうです。

ただ不仲説のあった石田三成に対する意趣返しだった可能性も?↓

shisengoku.hatenablog.com

 

加藤清正 大和一国(45万石)

 同じく関ヶ原の戦いの際の事です。

九州の清正の元に西軍の総大将である毛利輝元から西軍に参加を促す書状が届きました。しかし西軍には朝鮮出兵で苦渋を舐めさせられた小西行長石田三成の二人がおり、この二人を心底嫌っていた清正は

「大和一国(奈良)を賜れば直ちに関東に攻め下りましょう」

という返事を出しました。

京・大阪という政治の中心地から近い大和を丸々一国を持つというのは、豊臣政権でかなり強い影響力を持つということです。

殆どが西軍に属し清正と不仲であり政治の中心を司っていた五奉行の面々が承知するはずがありません。更に大和国には五奉行の一人である増田長盛が20万石の領地があり、輝元は色よい返事は出せませんでした。

結果、小西行長の領地をそのまま与えるという家康の約定に従い、黒田官兵衛と共に東軍に参加。九州平定に協力しています。

森長可 駿河遠江・甲斐(推定80万石以上)

 信長亡き後の覇権争いをしていた豊臣秀吉(当時は羽柴)と織田信雄&信雄と同盟を組んでいた家康。

直接対決となる小牧長久手合戦の前に家康の領地である駿河遠江の2国を条件に秀吉は、信濃14万石の領主。勇猛果敢で知られる猛将森長可に味方するよう使者を送ります。

駿河遠江(静岡)の2国を拝領すれば今の領地の倍以上となる破格の待遇でした。しかし長可はその2国だけではなく甲斐(甲府)も加えてくれないか(要は家康の領土丸々)使者に尋ねます。

使者は「かねてより秀吉様は、貴方は度量の大きい人物であるから、甲斐も一緒にと望んでくるであろう。しかし甲斐は他の人物に約束している。そう伝えよ」と、その返事を予測していた秀吉の言葉を伝えました。

その後、家臣のためにと粘った長可でしたが、結果駿河遠江の2国を与えるという条件に決まったそうな。

戦国武将の中でも有数の強烈エピソードを残している長可。圧倒的に格上な秀吉に一歩も引かない、その剛胆さは流石の一言ですね。またそれを予測していた秀吉も流石です。