かるーく巡る戦国時代と武将の歴史考察&紹介( ・`ー・´)

タイトル通り戦国時代と武将のにわか考察と紹介をしてるブログです

現代人も要注意。豊臣家の命運を左右した2人が苦しんでいたとされる病

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医療に対する知識や治療設備が充分では無かった戦国時代。

 一度病にかかってしまえば現代では対処できる病気も死に至ってしまう事も多々ありました。

それは満足に治療を受けられる立場であった武将も例外ではありません。

戦国武将のカルテ (角川ソフィア文庫)

戦国武将のカルテ (角川ソフィア文庫)

 

今回はそんな戦国時代において優れた医術で名医と評された曲直瀬玄朔が残したカルテ

『医学天正日記』に記されている、豊臣家の後継者であった『豊臣秀次』後継者候補であり、関ヶ原の戦いで豊臣の命運を決定づけた『小早川秀秋』の病状について採り上げていきたいと思います。

豊臣秀次 喘息

実子が居なかった天下人豊臣秀吉の養子となり、24歳の時に秀吉の跡を継ぎ二代目関白に就任した豊臣秀次

ただでさえ負担の大きい関白という業務をこなしていた秀次。

そんな彼を更に心身ともに追いつめたのが秀吉の実子秀頼の誕生でした。

生まれたばかりの秀頼と1歳になる秀次の娘の婚約話や日本を五つに分けて一つを秀頼に分けてほしいという話を持ち掛けてきた秀吉の態度に、自らの立場の危うさを感じとっていた秀次。秀頼誕生以降に元々持病で抱えていた喘息の症状が強くなってしまいました。

第一次朝鮮出兵時には、秀次が朝鮮に渡って総大将として指揮を取るという計画が持ち上がりましたが秀次は喘息の病を理由にこれを断っています。秀吉の側近であった黒田官兵衛は「総大将を受けなければ、秀次様の立場が危うい」と警告したそうですが、結局秀次の出陣は実現していませんでした。

 

心身共に疲れ切った疲労を癒す為に熱海へ湯治旅行にも出掛けていますが、結局心身が休まる事は無く喘息が悪化してしまったという玄朔の記録が残っています。

過労やストレスが誘因となって発作を起こすこともある成人気管支喘息

秀次が相当追いつめられていた様子が伝わる記録です。

小早川秀秋 アルコール中毒

 関ヶ原で最も有名になった武将、小早川秀秋。彼は若くしてアルコールに苦しまされています。

この時代の武将達は早々に元服し大人の仲間入りをしていたので、若いうち酒に蝕まれる事が多かったのですが、秀秋も例外ではありませんでした。

一時は秀吉の後継者として目されていた為、各大名衆の接待で酒宴を設けられる事が多く、並の武将達より酒に親しむ機会は多々あったのです。

秀秋と親交の深かった後の関白近衛信尹によれば少年時代は武芸に優れた少年だったものの酒の味を覚えて以降、人が変わってしまったそうな。

 

 関ヶ原に勝利し岡山に加増転封後、肌や目が黄色くなる黄疸症状、酒を飲んだ後の喉の渇き、みぞおちの激痛を医者に訴えていた秀秋。これは重度の肝障害の症状とされ、同年には酒を飲んだ後胸の痛みで食事も満足できなくなった事や舌の変色が記録されています。この時、まだ19歳。

2年後に亡くなった秀秋の死には色々な説がありますが、近年ではアルコール性肝硬変が原因ではないかと言う説が有力になっています。

 

現代と違い水の質も良くなかったでしょうし、臓器系にはかなりの負担がかかっていたでしょう…。時代は違えど、お酒は二十歳になってからという理由がよくわかる話ですね。