かるーく巡る戦国時代と武将( ・`ー・´)

戦国時代と武将の考察と紹介をしてるブログです

毛利家と織田家 天下人からの加増を断った二家の明暗


shisengoku.hatenablog.com

 

以前↑の記事を書かせて頂いたのですが、書ききれなかった二大大名も大幅加増を断っていたりします。

 

それが中国の毛利家。

織田信長次男、信雄が当主を務める織田(旧伊勢北畠家)家です。

太閤秀吉からの申し出を断った二家の決断。

 

f:id:shisengoku:20191118195957j:plain

 

片方は許され加増、片方は許されず改易

という明暗がクッキリわかれる形になりました。

どこに転封される予定だったのか。その理由はなんなのか。命運が分かれた理由は。というものを今回お話ししていきたいと思います。

毛利家 九州取次任命へ

本能寺の変後、謀反人明智光秀を征伐、織田家の権力争いに勝利し、敵対していた徳川家康・長宗我部家らの対外勢力も屈服させる事に成功。関白にも任命され天下に最も近い人物となっていた豊臣秀吉

その次なる標的は九州地方でした。

九州では破竹の勢いで勢力を伸ばしてきた島津家が台頭。

その島津に圧されていた九州第二勢力である名門大友家は織田信長時代から中央勢力に度々和睦の仲介を依頼していたものの、決まりかけていた和睦が本能寺の変などで御破算になり滅亡の危機に立たされていました。

そんな切羽詰まった大友家当主による直々の救援要請を受けた秀吉は九州制覇に迫っていた島津を阻止すべく関白として九州に停戦令を発します。

肥後・豊前筑後を大友へ返還させ、肥前を毛利の所領に、筑前は豊臣家の所領とし、残りの本領を安堵とする調停案を両家に打診するものの島津家がこれを拒否。

この停戦令の半年後には、毛利輝元宛に毛利所領から備中・伯耆の一部と備後・伊予を召し上げ、代わって九州の豊前筑前筑後・肥後の4カ国を与えた上で九州取次に任命する内容の書状が届けられています。

 

 

上記の石高表はあくまで参考値ではありますが、九州4カ国加増は中国・四国の一部を没収されても毛利にとって大きな加増でした。輝元の祖父である元就の代から狙っていた経済拠点である博多がある筑前も含まれているのも大きいです。

 

また取次という役割は文字通り秀吉と地域の諸大名を取り次ぐというもので、当時東国では上杉が取次を務め、家康服属後は徳川が取次役を務めています。

後にこの取次というポジションは豊臣家のエリートである奉行衆が勤めるようになりました。これに不満を持った武断派が文治派に悪感情を抱き、豊臣政権崩壊の原因となった内部対立に繋がったとも…。

それ位豊臣政権では大きな影響力を誇るポジションでした。

西国は毛利 東国は徳川?

結果この転封を毛利は断り九州取次も立ち消えになりました。

しかし、毛利重臣小早川隆景が伊予から筑前筑後の一部に2万石の加増転封されており断りながらも実質、加増処置を受けています。(一説には小早川隆景が毛利は現在の領地で十分と断ったとも)

取次任命の動きを見ていると、当初豊臣家は西国を毛利に任せ東国を徳川に任せようしたようにみえます。

いきなり豊臣の家臣を派遣すれば反発は必至ですし、その土地に影響力のある大名に当面任せておき、落ち着いた頃に徐々に権力を移譲する形をとっていったんではないかなと。

圧倒的速さで天下を取った豊臣秀吉の統治能力と毛利家と徳川家の信頼窺える政策ですね。

150万石への加増を命じられた織田信雄

もう一家、秀吉からの加増転封を断った織田(旧北鼻家)家。

その当主は明智光秀討伐後の清州会議にて、秀吉に推され織田家当主の三法師(信長の孫・後の織田本家当主)の後見人となり尾張・伊賀・伊勢等に100万石以上の領地を得た信長二男、信雄。

 

彼は後に権力を徐々に秀吉に掌握され後見人の立場が名ばかりなのものである事に気づき、父の同盟相手であった徳川家康と結託し秀吉と対立。

同盟相手であった家康が小牧長久手で秀吉との戦に勝利したものの自身の領地が攻められ、家臣の謀反が相次いだことで信雄は秀吉への領地の一部割譲を条件に家康に無断で単独講和を結びます。

これ以降秀吉の傘下となった信雄は九州征伐後に内大臣に任官。外様大名としては豊臣政権でNo1の立ち位置を手に入れ、豊臣家天下統一の総仕上げとなった小田原征伐にも参戦し功を挙げました。

その褒賞として秀吉は、織田家に対し旧領地である尾張・伊賀・伊勢を没収し関東に転封した徳川の旧領地である駿河遠江三河・甲斐・信濃のおよそ150万石程への転封を命じました。

およそ数十万石近い加増でしたが信雄は先祖大体の土地であった尾張を手放す事が出来ず、この命令を断ります。

許された毛利 許されなかった織田

 この転封命令拒否に激怒した秀吉。

織田信雄の領地全てを没収する改易処分を下しました。

 

この改易は転封を断ると予想していた秀吉の策だともいわれていますが、信雄の考えには毛利も断っているし…という考えが、もしかしたらあったのかも知れません。

 

しかし秀吉の旧主である信長の影響力が強い尾張という地を要し一度は手切れとなった織田。後に信雄旧領の大半は秀吉から後継者に指名された豊臣秀次が継承している事から、かなり重要な地点であった事が窺えます。

中央から遠隔地であり中国大返しの際にがら空きとなった背後に追撃をかけず、その後も同盟関係を堅持し続けた毛利。

この二家では条件があまりにも違いすぎました。

 

また中国・四国勢と中央勢力だけで挑んだ九州征伐時の天正14年(1586年)と違い小田原征伐時の天正18年(1590年)は東北から九州の諸大名まで結集させられるだけの支配体制を確立させた豊臣家にとって、もはや100万石程の勢力は恐れるに値しない存在だったのでしょう。

唯一恐れたのは同時期に関東に転封を命じた徳川との共闘でしょうが、一度裏切った織田家を信頼するのは難しいでしょうし、それをしても勝てる相手では無いの小田原征伐に参加した訳ですし。

その後、信雄は徳川から5万石を与えられ大名として復活を果たすわけなんですが…

その辺りの復活劇も戦国の面白さですね。その辺りは別の記事で取り上げられたらなーと思ってます。

今回はこの辺でーではでは。