かるーく巡る戦国時代と武将( ・`ー・´)

戦国時代と武将の考察と紹介をしてるブログです

関ヶ原の戦いで改易・浪人⇒10万石以上の大名に復帰した2人の武将

戦国史上最大規模の戦、関ヶ原の戦い

 

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総兵力は両軍合わせて20万近くに及んだ大合戦は徳川家康率いる東軍が勝利しました。

この勝利により家康を始めとした東軍武将は大幅な加増を受けましたが、西軍についた大名衆は石田三成安国寺恵瓊小西行長らが改易のうえ斬首。家康の同じ五大浪の宇喜多秀家が改易処分を受ける等厳しい処置が行われました。

西軍に参加した大名は170家程。その殆どが改易。

お家存続は叶ったものの減封となり大名(1万石以上)からの降格になった大名も多々。

そこから大名(1万石)に復帰できたのは僅か11家程でした。

今回はその中から一時は浪人の身になりながらも10万石を超える領主に復活を遂げた2人の戦国武将について語ってきたいと思います。

立花宗茂 筑後柳河 13万石⇒改易

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対島津・朝鮮出兵において抜群の功を挙げ豊臣秀吉に“西国無双”とまで称された九州の名将・立花宗茂

元々大友家家臣だった宗茂は旧主君大友宗麟の推挙により秀吉直臣として取り立てられ筑後柳河13万石が与えられていました。

その恩を忘れなかった宗茂関ヶ原の際に家臣から東軍入りを薦められ徳川家康からの50万石の加増の誘いが届いたにも関わらず「勝敗に拘らない」「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」とまで言い放ち、西軍への参加を決め大阪に向かったのです。

 

その後、伊勢攻めを行った毛利軍と合流し寝返った京極高次が守る大津城を1週間あまりで攻め落とす活躍をみせました。ですが、大津城が開城した日は関ヶ原の戦い本戦のまさに当日。

宗茂は本戦に間に合わず、更に西軍壊滅を知らせが届いたため大坂城に引き返します。

大坂城では西軍総大将の毛利輝元に籠城しての徹底抗戦を唱えましたが輝元はこの時点で、吉川広家を通じて家康方に恭順の意を示していた為、宗茂の提案は拒否。

大津城を攻め落としていた宗茂はこのまま恭順しても処罰される事は確実。このまま大阪城に残り続けても意味が無いと悟った宗茂は自領の柳川に帰国します。

 

九州に戻ると東軍の黒田官兵衛加藤清正鍋島直茂らが宗茂の所領である筑後柳河に大軍を率いて攻め寄せていました。特に鍋島家は当主直茂の嫡男が西軍についていたマイナス面を挽回するため32000人を動員するなど士気の高く、その猛攻を前に立花方の城は次々と落城。13000程の立花勢は追い込まれていました。

立花家を慕い涙ながらに降伏開城を拒んでいた領民を案じた宗茂は、これ以上の戦は無益と判断し城を開城。これにより立花家の改易が決まり、宗茂は浪人に身を落とす事になったのです。

 

加藤清正の元で食客 本多忠勝の元にて蟄居生活

 浪人になった“西国無双”宗茂の元には加藤清正前田利長らの有力大名からオファーが殺到しましたが、これらの誘いは全て断っていました。

一時島津家や加藤家の元に家臣ではなく食客として世話になっていたものの、すぐに家臣数人らを引き連れ京へ向かい浪人としての暮らしを始めます。

 その後、家臣らが内職をして家計を支える浪人生活を経て江戸に移住。

 

宗茂徳川四天王の一人本多忠勝の世話の下に蟄居生活を送り、その忠勝の推挙で幕府の御書院番頭として5000石を与えられました。

更に1604年、後に二代となる将軍徳川秀忠の御伽衆に選ばれ陸奥棚倉に1万石を与えられ大名に復帰。1610年には同地で3万5000石に加増されています。

 

かつての所領 筑後柳川に復帰

 そして1620年、宗茂は所領筑後柳川に10万9000石を与えられ、西軍に参加し改易された大名としては唯一かつての領地を与えられた大名となりました。

 

かつて徳川に背きながらもこれだけの出世を果たしたのは、“西国無双”と呼ばれた武勇の評価だけではなく温厚で義理に厚く誠実な宗茂の人柄が影響していたといわれます。

側近本多正信が「家康公の仰に、天下に隠れなき立花宗茂が事よと宣ふ。」と語っており、大阪の陣の際には豊臣方にかつないよう懸命に説得したそうな。また大阪の陣では秀忠の参謀として参戦し、毛利勝永の軍勢を追い払っています。

1638年に起こった島原の乱では齢70を超えながら参戦。総大将の松平信綱の輔佐と戦略面の指揮を任されており、3代将軍家光の代においても幕府から深い信頼を得ていた事が伺えますね。

 

丹羽長重 加賀小松 12万石⇒改易

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織田信長重臣丹羽長秀の嫡男として生を受けた長重。

父は清州会議以降、秀吉に味方した功により123万石の大領を得ていましたが1585年に病により死去。長重はわずか14歳にして123万石の領地を受け継ぐことになりました。

 ところが同年、秀吉が敵対していた佐々成政へ丹羽家が内応した疑いがあったとして若狭15万石への転封と有力家臣の召し上げを通告。 更に九州征伐の際に丹羽家家臣に不手際があったとして更に加賀4万石へと減封されてしまいます。

その後、小田原征伐時の功により加賀12万石へと加増されますが結果として元々の領地から100万石以上の減封という史上稀に見ない厳しい処分を受けました。

 

↓こちらに原因を考察した記事かあるのでよろしければ

shisengoku.hatenablog.com

 

 時は流れて、1600年。長重は北陸の調略を担当していた大谷吉継の誘いに応じ西軍に参加します。北陸の殆どの大名は調略に応じていたのですが、母のおまつを徳川に人質にとられている前田利長率いる北陸の大大名前田家は東軍として参戦していました。

殆ど付近の大名を西軍で固められたことに危機感を覚えた前田家は丹羽家の小松城に2万5000を率いて攻撃を開始。丹羽家の総兵力は3000程度でしたが、大谷吉継が調略により前田家の背後を轟かしたため撃退に成功。(浅井畷の戦い)

前田家の南下を阻止した事で、西軍が勝てば大きな加増が望める活躍でしたが…結果関ケ原は東軍の勝利となり丹羽家は改易処分に。

二代目将軍秀忠との仲 宗茂との関わり

浪人となった長重。ですが、しばらくしてから江戸に出仕するように徳川家より手紙が届きます。家臣ら数人と家康から許しが出たと喜んで江戸に向った長重ですがしばらく、ある宿に留め置かれました。

これは長重と幼少時に付き合いのあった秀忠が浪人である彼の面倒を見るための計らいによるもので長重はここでしばらく幽居し、1603年に常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰を果たします。

1617年には二代将軍になった徳川秀忠の御伽衆として奇しくも同じく西軍に属し改易されながらも復帰した立花宗茂と共に選ばれ、1622年には宗茂の前領地であった陸奥国棚倉に5万石の加増転封されるという不思議な関わりあいも。

白河10万石

 そして1627年、白河10万石に加増転封され宗茂に次いで、二人目の10万国を超える領地の回復に成功した武将となりました。

秀忠と懇意であった事が幸いした長重ですが、築城技術にも優れていた事も復帰できた大きな要因だったそうな。

また実直で誠実な人で柄前田家と戦った浅井畷の戦いの際には、人質として預かった前田利家の側室の息子である前田利常(後の加賀二代目藩主)に自ら梨を剥いて食べさせてあげたというエピソードが残っています。